日本歴史と雑事記録

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千姫の墓所と吉田御殿の酷い作り話

↑は、茨城県常総市豊岡町の弘経寺に存する「千姫の墓」です。江戸を離れた田舎の町に、ナゼ千姫の墓が?と誰でも思われるだろう。この弘経寺と言うのは名刹で有って、往古は「下総国寿亀山天樹院弘経寺」と呼んだようです。現在は、芝の増上寺の傘下に有ると言う。千姫の数奇な生涯にについては、他言の必要は無いだろう。徳川家光の子として生まれ、母は信長の血を引く於市方(23歳)です。7歳にして豊臣秀頼に嫁いだのです。千姫は徳川家康から見れば「孫に当たる」わけです。秀頼に嫁いだのは、当然だが政略結婚だったわけです。


戦国の世で、政略結婚は良く有る話です。幼い子供同士の結婚ですから、両親が心配し嫁ぎ先に逢いに行ってみたら、幼い子供同士が日当たり良い縁側で「ママゴト遊び」に夢中だったと言う。実際に有った話ですが、現在の世であれば笑い話でしょうか。


千姫は後には良縁に恵まれましたが(桑名藩10万石の本田忠政)残念ながら夫は夭折したと言う。亡き夫忠政の逮夜を迎え法要を行ったが、家光のアドバイスを受けて家康と秀忠が帰依してる了学上人に戒師を頼んだと言う。この了学上人と言うのが「下総国寿亀山天樹院弘経寺」の住職であったのです。かくして千姫の墓所は、茨城県常総市豊岡町の弘経寺に有るわけです。尚、茨城県常総市では毎年「千姫まつり」を行っているようです。


序でだが、この千姫に関しては「吉田御殿」等と言う馬鹿話が有る様ですが、此は大正8年に民俗学者の藤沢衛彦氏の作り話(江戸伝説叢書、吉田御殿、13章)です。千姫を貶める酷い話です。

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