日本歴史と雑事記録

世界史と雑事記録

ゴミを減らすにはどうしたらいいのか?

↑は、市からの広報の一部です。「ゴミを減らすにはどうしたらいいのか?」のタイトルです。ナゼか我が家の「ゴミ捨てはいつの間にか私の役目」になっている。班のゴミ集積場のゴミ捨てに、多々問題がある事が時々眼に付きます。


1,燃えるゴミは「赤の袋」で大小が有る。
2,燃えないゴミは「青い袋」
3,資源ゴミ(緑色の袋)主に、プラ製品で食器類(綺麗に洗って出す)
4,ガラス製品(瓶)は、指定された日時と場所に出す。
5,大物のゴミは集積券(1点500円)を買って、市に連絡の上引き取って貰う。
6,段ボール、新聞、雑誌類及び「カン類、プラ瓶」は、学校等が回収する為の倉庫が有る


問題の第一は「外国人労働者達が規則を守らない」事です。可燃、不燃等はお構いなしで捨てる事です。その原因は字が読めない「可燃、不燃の意味が分からない」事にも有るようです。又、アパート等から他に引っ越す場合には、大型ゴミ類は「集積場の外」にも出す事が多いのです。古い電機製品(例テレビ等)には鉛が含まれている)も捨てて行く。


ゴミは捨ては「日時が決められているが」守れない。時々は、集積場に入れない様なゴミの山が有る。但し、我が班ではゴミ集積場の掃除当番が有って、他と比較すれば綺麗に成ってると言われます。


ゴミを減らすには、やはり基本的には↑の様な事を守る必要が有るだろう。必要以上の「モノを買わない」と言うのが基本でしょう。現実として我々日本国(人)は裕福で、「モノを買いすぎて、結局は捨ててしまうとか、タンスの肥やしにする事が多い」のです。ゴミ捨てには多々問題が多いのですが。結局は過去の日本は裕福だった、と言う事でしょうか。

如意輪観音像と月待ち講

↑は「如意輪観音像」です。独尊(例えば二十一夜講や二十二夜講等)として、神社や墓所等に良く見掛けます。この像は「女性の座産かも知れない」と秘かに思っている。石仏辞典等で調べると、その様に解説したものは殆ど見掛けません。この像の梵名は「チンターマニ.チャクラ」と呼びチンターマニは如意宝珠を、チャクラは車輪を意味すると言う。


「如意輪観音の役割は、六道の衆生の苦しみを取り去り利益を与える菩薩だと言う。」役割で重要な事は車輪で有って「車輪はどこにでも転がるように」何人も何処に居ても救うのだと言う。変化観音菩薩の一つで、六観音(又は七観音菩薩)に数えられるらしい。


この如意輪観音像は、普通は女性達の二十一夜講や二十二夜講(月待講)等で崇拝されるのです。男性が、参加する事は殆ど無いと言う。これは念仏講でも有って、如意輪観音像の掛け軸を掛け念仏をあげるのです。終われば、飲食と雑談に花を咲かせます。舅や嫁の悪口を言ったかも知れません。女性には女性ならではの悩みが有るから、それを解決緩和出来るのは二十一夜講や二十二夜講だったのです。女性達には貴重な時間だったわけです

今時の民俗学(観音山法性寺)

↑は茨城県南西部の常総市豊岡町に存する「観音山法性寺(浄土宗)」と言う名刹です。往古は女性に人気が有ったと言う「如意輪漢音菩薩像」は市の指定文化財らしい。小僧さんが箒をもって掃除をしてますが、いつ見ても綺麗なのは小僧さんが掃除を為てるためだろう。


↑は、その由来などが書かれています。横曽根(字名)の談所(浄土宗の言わば学校?)だった時期も有ったようです。


↑は、この寺の片隅に見た「太師堂」で、左の石柱には「壱番」の刻銘が見えます。即ちこの法性寺は、太師講札所の第一番だったのだろう。但し、どの様な「講名」だったのかは知りません。尚、写真の右方には「弘法大師の石の座像」が数多く見られます。多くの寄進者が居たのだろう。写真の祠には弘法大師の座像は収まっていますが、その高さは立って拝める位置に有るのです。疲れない工夫をしてるのです。


又、日本全国の「観音霊場」としては、かなりの数に成るそうですが、茨城県には十八ヶ所有ったそうです。↑の「法性寺」も入っていて如意輪観音が、それを代表してるのだろ。戦前(75数年以前)の田植え前の4月~5月頃には、太師巡礼や観音巡礼が盛んに行われいたのです。令和の現在では、ナゼか参拝の為に訪れる者は余り見掛けません。如意輪観音は「恐らく女性の座産」を表したもので、女性には人気が有ったのは当然です。

力石をご存じですか?

↑の中央に有るやや丸い石が「力石(チカライシ)」と呼ばれるものです。力石とは「労働者の間に発生し力比べや体力を養う目的とした石をさす」と定義して良いだろう。(高島愼助著、岩田書院刊、茨城、栃木の力石等)力石には奉納者、重量、年月や最も重いモノを持ち上げた者の名前など刻銘されてる事が多いようです。↑の石には「天保四巳年」の刻銘が見られます。尚、この天保4年の八月には関東地方は大風雨(台風)が有ったし、東北地方では飢饉も発生したと言われます。


力石の歴史は古く、既に鎌倉時代には行われていたらしい。労働者の間には盛んに行われていたというから農業が主だろう。他の職種としては馬車引き、船頭等(千石船や高瀬舟)にも見られるという。又、重い石を持ち上げた者を顕彰して、その石を神社等に奉納したものが日本全国に見られます。


令和の現在のお米は、紙袋又はビニール袋を使って「5kg、10Kg、30kg入り」が多いようです。然しながら戦後直ぐまでは「藁で編んだ俵を使用していた」のです。これを米俵と呼びます。この米俵を肩に担げあげられない者に「お嫁さんの来て」が有りません。従って村の若者達は、若者宿や神社の境内等に集まって力石を持ち上げ鍛錬に励んだのです。従って、力石の歴史は民俗学から見て古く、且つ文化財としても有形無形に貴重なのです。現在では、その価値が見直され「文化遺産として保護してる自治体」も多い様です。

千姫の墓所と吉田御殿の酷い作り話

↑は、茨城県常総市豊岡町の弘経寺に存する「千姫の墓」です。江戸を離れた田舎の町に、ナゼ千姫の墓が?と誰でも思われるだろう。この弘経寺と言うのは名刹で有って、往古は「下総国寿亀山天樹院弘経寺」と呼んだようです。現在は、芝の増上寺の傘下に有ると言う。千姫の数奇な生涯にについては、他言の必要は無いだろう。徳川家光の子として生まれ、母は信長の血を引く於市方(23歳)です。7歳にして豊臣秀頼に嫁いだのです。千姫は徳川家康から見れば「孫に当たる」わけです。秀頼に嫁いだのは、当然だが政略結婚だったわけです。


戦国の世で、政略結婚は良く有る話です。幼い子供同士の結婚ですから、両親が心配し嫁ぎ先に逢いに行ってみたら、幼い子供同士が日当たり良い縁側で「ママゴト遊び」に夢中だったと言う。実際に有った話ですが、現在の世であれば笑い話でしょうか。


千姫は後には良縁に恵まれましたが(桑名藩10万石の本田忠政)残念ながら夫は夭折したと言う。亡き夫忠政の逮夜を迎え法要を行ったが、家光のアドバイスを受けて家康と秀忠が帰依してる了学上人に戒師を頼んだと言う。この了学上人と言うのが「下総国寿亀山天樹院弘経寺」の住職であったのです。かくして千姫の墓所は、茨城県常総市豊岡町の弘経寺に有るわけです。尚、茨城県常総市では毎年「千姫まつり」を行っているようです。


序でだが、この千姫に関しては「吉田御殿」等と言う馬鹿話が有る様ですが、此は大正8年に民俗学者の藤沢衛彦氏の作り話(江戸伝説叢書、吉田御殿、13章)です。千姫を貶める酷い話です。