日本歴史と雑事記録

世界史と雑事記録

空海と茨城の民俗

生家の宗派は真義真言宗だと言う。真言宗は↑の立像のように「空海が開祖」したものです。故郷を離れた者は、やがては新たな宗派に入る必要が誰にも有るだろう。従って、故郷に習い真言宗を選んだわけです。真言宗には宗派が十個程有って、入ったのは智山派だと教えて頂いた。寺院教会派の数は、日本全国各地に2,854有ると言う。真言宗の中では、高野山真言宗に次ぎ2番目に多いらしい。


教義は「大日経」、「金剛頂経」の二経と「菩提心論」をよりどころとし、空海の諸書を主軸として真言宗の教理、実修が組織されていると言う。(信仰の原点、史学会)但し、これらを並べられても素人には「ナンの事やら(密教)」さっぱり理解できません。


真言宗に入信したから多少でも理解しなければと思い、図書館で故司馬遼太郎の「空海の風景」を借りてきた。生まれは讃岐国の多度郡の人で、元は佐伯氏だという。どうやら佐伯氏には二種類有って、空海は毛人の血を引いてるかも知れないと言う。毛人とは、単純に考えてアイヌ人と考えても良いという。詳しくは「空海の風景」を読んで頂きたいが、空海と言う天才の出現と、毛人との関わりは無縁では無いと言う。


話は飛んで、ここ茨城県南西部地方には「新四国八十八カ所巡り」の信仰が古くから盛んだったらしい。四国のお遍路が出来ない庶民が四国八十八カ所巡りになぞらいて、寺の境内や「御小屋」等に大師様の石像を安置し、なかにはお堂を建てたりしたと言う。その札所に参拝するわけです。参拝するときは、その札所のご詠歌が有ったようです。これらに付いては「茨城の民俗、第20号、大師信仰特集、茨城民俗会編」に詳しいようです。

茅の輪くぐり(一言主神社)

↑は茨城県南西部常総市の一言主神社の「茅の輪」です。これをクグレバ今夏は夏負けや疫病に掛かる事も無く、無病息災で過ごす事が出来るのです。但し、これをくぐる時には作法が有って、作法は画面左方に書いてあります。作法に従って、今黒マスクをした男性が回っています。


この茅の輪くぐりは日本歴史上に永い伝統が有って、平安時代には既に行われていたそうです。続群書類従には「御湯殿上日記」が収められ、毎年「アサガレイの間」で行われた事が書かれています。


往古の日本では、夏の疫病で死者も出る事が多かったと言う。これは衛生上の問題ですが、夏場は水を使う事も多いが未だ下水や冷蔵庫も無いから、例えば上流で細菌(例えば赤痢菌)が流れれば、下流側でも赤痢が発生したのです。この様な状況は、戦後直ぐまで発生したのです。夏場を丈夫で健康に過ごすのは、庶民の切なる願いでも有ったのです。夏を迎えるに当たっては隣国の中国でも、色々な対策(行事)が有った様で、日本にも入ってきたようです。


尚、↑の一言主神社の神様にお願いする時は「一言のみ」しか効果は有りません。欲張って二言三言は効果が有りません。独身の男女諸君等はお参りして「良い伴侶に恵まれる様にと」一言お願いしては如何でしょうか。必ずや霊験が有るでしょう。

↑は、宝篋印塔(ホウキョウイントウ)と呼ぶらしい。

茨城県南西部の某都市部の某寺(無量寺)に、用事が有って行ってきた。寺の墓地には一段と高くそびえる塔が見られます。かなり古い物らしく、建造者一族の者が整地整備したものだと言う。帰宅し「日本石仏辞典」で調べてみるとこれは「宝篋印塔」と呼ぶらしい。石仏辞典によれば、密教を大成させた「沙門不空三蔵」と言う者の経典に、この宝篋印塔の由来が書いてあるらしい。


「若し人、この経を書写して塔の中に収めれば、この塔は一切如来の金剛蔵の卒塔婆となり、又一切如来羅足秘密加持の卒塔婆とならん」、そして「この塔の一香一華を備え礼拝供養すれば八十憶却生死重罪が消滅し、生きてる間は災害からのがれ、死後必ず極楽に生まれ変わる」と言う功徳が有ると言う。


坊さんの言う功徳には「我々庶民には解かりかねる難解の部分が多い」のです。然しながら、生きてる間は災害からのがれ、死後必ず極楽に生まれ変わると言う部分には魅力が有る塔では有るようです。


尚、この宝篋印塔の初期(平安時代)の目的は「経典を納める目的」だったようです。図の立派な宝篋印塔は、江戸時代に建造され、一族の繁栄と安寧とを祈って建造されたものだろう。それにしても、立派な宝篋印塔では有るようです。

梅雨とは(改正月令博物筌)

梅雨の花と言うなら「紫陽花」が良く似合う花だろう。↑は、近所の紫陽花で現在満開のようです。現在の梅雨入りは気象庁が懇切丁寧に教えてくれますが、江戸時代の梅雨入りを知る方法は、下記の「改正月令博物筌(セン)、梅雨出入りの説」として紹介されています。


按ずるに、五月の梅まさに黄み落とさんとす。柘榴(ザクロ)の花開き、栗の花落ち、蜂の子巷に踊るの比、長雨有り。これを梅雨と言う。雨甚だ多からずと言えども、必ず石ずい湿り、物陰にカビが生ず。雷鳴をもって出梅とする。京師鳥丸中立売下る町の巷、又大徳寺門前の人家後ろ、並びに梅雨の穴あり。その時に至れば水湧きいずる。晴れんとすれば水乾く、摂州丹生の山田栗花落左衛門宅に井戸有り。径三尺、深さ一尺、梅雨になれば水必ず湧く。出梅のこの水乾く也。


注:梅の実を生(青梅)で食べるのは厳禁(猛毒有り)です。梅雨に入って黄色に実り、落ちんとする時なら良いとされます。又、近所には柘榴の花が咲いています。


注:梅雨の終わりには、必ず雷鳴がなるものです。夏を知らせる雷鳴です。


注:梅雨を知らせる井戸(水が豊富に湧き出る)は、昔から良く聞く話です。

愛しき香港の水上レストラン(珍宝)

香港には一時的に現住所を移転した事が有って懐かしいが、現在は中国に全て奪われてしまった。英国のサッチャーさんが香港島も含めて、全域返還してしまったのですが、香港島の方は返さなくても良かった筈なのです。1990年代の香港は日本企業の工場が中国広東省に有っても本社機能は香港に有ったから、香港の名所は殆ど知っている。


↑は、香港の名所でアバデェーンの珍宝(通称はジャンボ)の様子です。中華風の建物は湾に浮かべたレストラン(中華料理)で、このレストランに行くにはボートに乗って行くわけです。始めて香港を訪れた者を接待するには、最良の場所と言って良いでしょう。何せ、ジャンボに行く為のボートに乗った途端に「中華特有の匂い」がして、異国情緒が味わえるわけです。レストランに入室すれば、更に「中華人特融の喧騒と中華料理」に圧倒されるのです。王座の椅子が有って、そこに座って貰い写真でも撮れば接待は完全でしょう。


このジャンボだが「コロナ禍の影響も有って」最近は客が入らず、更には建物自体が老朽化したから、この程「半世紀の幕を下ろした」と言う。残念ながら、買い手も見付からなかったと言う。この建物は解体されるのでしょうか。その行く末は知りませんが、香港も変わりつつ有るようです。変わったと言うなら、香港は完璧に共産圏で有って「民主圏では無い」と言う事です。